1.
最近、自分の中で「旅」がキーワードになることが多い気がしています。まずは、最近「旅」について気になったことを書き並べてみます。
「今のうちに/旅をしよう僕らは/悲しみにひらひらと手を振る」(星野源『光の跡』)
この歌詞を含む曲は、こんな背景からできたそう。
「好きな場所に行くことも、味わうことも、楽しむことも、生きることも、そのすべてはすぐに終わります。本当に、「今のうちだな」と思うのです」(星野源「光の跡/生命体」のブックレットから)
ふと思い立った金沢旅行が、この曲の完成に大きな影響を与えたそうです。
という話をラジオで聞いて以降、「金沢に旅行に行きたいなぁ」とずっと思っているのですが、いろいろな事情が重なって未だ叶わず。この夏こそ行けたらいいなと願っています。
それと、キリスト教のいくつかの主要なテクストを、「旅人の神学」という視点から語っている入門書を読みました(下にリンクを貼っておきます)。
この本の中で登場するのは、各地を回る「旅人」として生き、そして人生という「旅」をする「旅人」でもありました。
そんな「キリスト教の核心」を、この本とともに「旅」をするかのように、時に読者から離れつつ、時に読者に寄り添いつつ、語りかけてくれます。「キリスト教のことは知っている」という方もぜひご一読を。
(ちなみに、このシリーズ、いろいろなトピックについて出ているのですが、2時間ほどで読み切る割に内容がとても充実しているので、個人的おすすめです)
そんな人生を「旅」に例えた筆頭として挙げられるのは、松尾芭蕉かもしれません。彼は「おくの細道」で、「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」と記しています。
2.
他にも「旅」をめぐるトピックはたくさんある気がしますが、パッと思いついたところをつらつらと書いてみました。
というわけで、ここからが本題ですが、そんな「旅」とは何なのか。それほど「旅」には人を惹きつける何かがあるのでしょうか。
「旅」を一言で言うならば、「普段生活している場所を離れること」となるでしょうか。東京に住んでいる人が「大阪に行く」となれば、それは日常を過ごす場所を離れる「旅」になるでしょう。場所はもっと近い横浜かもしれないし、もしかするとブラジルかもしれません。距離の大小はあるにしても、「普段生活している場所を離れること」があるとすれば、それは「旅」ということができるでしょう。
これは「旅」を空間的に捉えたものでした。そして、これが「旅」の一般的な定義であるように思われます。
それでは、もう少し一般化してみましょう。「離れる」のが、空間ではなくて時間であればどうなるでしょうか。言い換えれば、「普段生活している時間を離れること」はできるのでしょうか。とは言うものの、私たちは「いま、このとき」しか生きることができません。ドラえもんの世界のようなタイムマシーンは、いまのところ(2024年時点)では実在していません。
現実的に考えて、「普段生活している時間を離れること」はできないはずです。でも、直観的に「普段生活している時間を離れること」は頻繁に起こっているような気もします。
例えば、退屈な会議をやり過ごしているとき、「普段生活している時間」よりも幾分遅いスピードで時が流れているような感じがします。逆に、推しのコンサートでは、「普段生活している時間」の何倍も早く時間が流れている印象を受けます。
そんなことを考えると、時間的な「旅」、つまり「普段生活している時間を離れること」は日常にありふれているかもしれません。
3.
そんな空間的・時間的な距離を生み出す「旅」が「人生」に準えられる。そうだとすれば、「人生」とは、「非日常を生きること」と言うことができるかもしれません。矛盾があるように感じられますが、それが「人生」の本質なのではないかと私は思います。
そんな「非日常を生きる」ために必要なのは、「選択」です。無為に過ごしていては、おそらく「非日常」を生み出すことはできないでしょう。
そのような「選択」の積み重ねが「旅」であり、そして「人生」になる。旅を始めるには、まず行き先を決める、すなわち場所を「選択」する必要があります。
その「選択」が間違っていることもあるかもしれません。でも、「間違った選択」が生み出すのも「非日常」です。「非日常」を生きることは、「旅」をしていることに他なりません。その「非日常」がそのまま「日常」になるかもしれないし、あるいは帰ってきて「日常」に戻ることもできます。それも一つの「選択」です。
だからこそ、私たちは「今のうちに」旅をしないといけないのでしょう。「旅」とは、「日常」を離れてみることです。
13 / Apr / 2024