あおいそらのむこう

美学・音楽学を研究する大学院生の日々の記録

「楽理科」とはどんなところだったのか?

東京藝大には、「楽理科」というところがあるらしい。「楽」しい「理科」ではなく、「楽理」「科」である。そんな学科が存在することを聞いたことがない人が大多数だろう。普通に生活を営んでいれば、「楽理」という言葉を一度も聞くことなく生涯を終えてしまうなんてこともあるかもしれない。

そんな名前を冠した学科に入学し、そして卒業する。楽理科を去る一人間として、結局「楽理科」とはどんなところだったのか、一つの回答を示すことは必要なのではないだろうか。長くなってしまいそうな気がするが、卒業式前夜に、そんなことに思いを巡らせてみることにしたい。

 

1.

私は過去のことをあまり覚えていないのだが(なんなら昨日のことすらよく覚えていないことが多々ある)、それでもはっきりと覚えていることがある。

入学した年度は2020年度。「2020」という数字と、藝大楽理科への入学は、私の中で固く結びついている。

 

「2020」は、本来東京オリンピックが開かれるはずの年であった。地方出身の私としては、藝大に合格すれば、東京オリンピックの競技の一つや二つは観にいくことができるかもしれない、と微かに期待していたような気がする。気がするだけなので、もしかしたら違ったかもしれない。

しかし、オリンピックは2020年に開催されなかった(ちなみに、その1年後=2021年に開催されたことは、インターネットで調べなければわからなかったし、侍ジャパンが金メダルを取ったか否かも調べなければ確信が持てなかった)。

 

藝大への切符は獲得したはずなのに、なぜか「歓迎」されなかった。入学式もなければ、大学に立ち入ることすら許されなかった。

「友達百人できるかな」と呑気に言っている場合ではない。

外出自粛を要請された4月、果たして大学の授業は始まるのだろうか、と非常に不安になった。

5月からはオンライン授業が始まったが、まず同級生の顔がわからない。パソコン越しに聞こえる声の方が、友人を聞き分ける頼りとなった。

新しい環境ではなく、パソコンと格闘したまま前期はそのまま終わってしまった。このパソコン越しにいる同級生とこのまま二度と会うことなく終わってしまうのではないか、というか本当にこの人たちは実在するのだろうか、とありもしないことも考えていたような気がする。気がするだけなので、もしかしたら違ったかもしれない(2回目)。

 

10月になって、ようやく本格的に大学に入って実技の授業を受けることができるようになった。楽理科の専門科目はもちろんオンラインで開講されたので、大学に行く日の方が少なく、やはりパソコンと向き合う日々。

 

2年生になっても、楽理科の専門科目は基本的にオンライン。一部の演習形式の授業だけ、人数制限はありつつも顔を合わせてディスカッションができるようになった。

 

そんなこんなで2年生まで終わってしまった。

とんでもない大学生活のスタートだったかが、それでも良かったことといえば、「音楽学概説」を教室で受ける必要がなかったことだろう。これは1、2年生の必修科目で、火曜日に3コマ、つまりトータル4時間30分講義を受けなければならないのだ。いまとなってはオンラインで良かったなぁ、なんて思ってしまう。4時間30分も教室で講義を受けるなんて。。。

 

2.

覚えていないという割には、割と長めに思い出に浸ってしまったので、話を本題に戻すことにしよう。

楽理科の紹介文には、次のように楽理科が紹介されている。

 

楽理科は、音楽研究の学である音楽学西洋音楽史、日本・東洋音楽史、音楽民族学、音楽美学など)を研究・教授し、将来、音楽の学問的研究およびそれに関連した仕事にたずさわる人材の養成を目的としています。https://www.geidai.ac.jp/department/music/musicology

 

んー、わかるようなわからないような。どうやら、「音楽学」を専門に勉強するところのようだ。

先日最終講義を終えた小田部胤久先生は、

人文系の学問にとって、その学問が何であるかを規定することは、その学問の歴史を探究することと密接に結びついている、と私は考える。*1

と述べていらっしゃる。「楽理科とは何か?」という問いは、ひとまず「音楽学とは何か?」という問いに還元することができそうだ。

 

とはいえ、「音楽学とは何か?」という問いもなかなかに難問である。

まず、「音楽学」とは、経済学や物理学、数学のように、「音楽」を対象に研究をする学問である。薄々お気づきかもしれないが、「音楽学とは何か?」という問いに正確に答えるためには、それに先立って「音楽とは何か?」という問いに対してある程度の「答え」を持っておく必要がある。「音楽」という概念は、「音楽学」以上に厄介だ。卒業式の前夜に、こんな難問に立ち向かいたくはないので、これくらいにしておこう。

 

それに、例えば「美学」であれば、バウムガルテンにその始原を求めることができるのだが、「音楽学」で同様のことを試みるのは難しいように私には思われる。これも、卒業式の前夜に考えることではないだろう。

 

3.

「楽理科」を「音楽学」と言い換えて考えてみたものの、あまり有益な情報は得られなかった(し、途中で思考を放棄してしまった部分もある)。

 

私自身の実感としても、「楽理科」が「音楽学をする場」である、とは必ずしも言えないのではないかと感じている。もちろん卒業論文音楽学に関する論文を書くことになるので、その点では「楽理科」は「音楽学をする場」であることは間違っていない。しかし、普段は演奏活動を中心にしている人もいるし、コンサートの裏方のお仕事をしている人もいるし、音楽祭の企画や運営をしている人もいるし、本当に何をしているのかわからない人もいる(笑)。

そのような人たちを含めて「楽理科」を「音楽学をする場」であるというのは少し的外れなような気もするのだ。

 

それでは、「楽理科」に集う人たちはどのような人たちなのか。

それは、「音楽を愛する人たち」である、ということだ。中には途中で音楽にうんざりしてしまったり、飽きてしまったりする人もいる。そのような人たちを除外しようとするつもりはまったくない(し、むしろそれはそれで良いことだと思う)。少なくとも楽理科を志望し、入学するときには、何らかの形で音楽に興味関心を持っていたり、ある音楽が好きであったりする。楽理科は、そのような「音楽を愛する人たち」が集まってくる場である。

 

論文を書いたり、音楽について勉強しなければならなかったりするといった「義務」的なものが生じると、どうしても「音楽を愛する」という感覚を失ってしまうこともある。

それでも、卒業するときには「やっぱり音楽っていいなぁ」とか「私は音楽を愛しているな」とか思っているし、そうであってほしい。

 

「音楽を愛する」という、最も単純で、かつ根源的な思いを持った人たちが集まり、そしてその気持ちが揺らぎつつも、その思いを4年間で再確認して去っていく。そんな場所が「楽理科」である、と私は考える。

そして、そんな気持ちを持って、卒業を迎えたい。

 

2024/03/24

*1:小田部胤久・宮下規久朗『西洋の美学・美術史』、11頁